TOPへ

ときメモについて語る?

HOME BACK

もはやゲームどころかテレビから遠ざかって、一年チョイ。

やったゲームはパソげーかエミュSNESか。

そんなおれがいまさらゲームについて語るもくそもないが、

今日すげえものを発見してしまった。

世の中ではもう常識なのかな。

おれはファミ通を立ち読みする。

べつにゲーム記事じゃなく、天からトルテだけを読んでいる。

しかもなんとなく。

ぺらぺらとページをめくっていると、とあるコナミの広告。

ときメモ実物大フィギュアついに登場

ふ〜ん。ついに登場かァ。

実物大!?

まじかよコナミ。

いくらなんでも脳細胞膜破砕クロレラ状態じゃねーか!?

値段を見てびっくり仰天。

可動式:500000円

固定式:380000円

ケタ間違えてねーか?

五十万円三十八万円!?!?!?

いまどきオランダ妻だって5万払ったら上等なのが通販で買えるぜ!?

だいたい等身大フィギュアってすでにフィギュアじゃないんじゃ・・・

あんな色気も食い気もねえようなマネキンが五十万だってさ。

世も末だね。実際世紀末だしね。

そもそも可動式と固定式で12万円も違うのかよ。

よっぽど精巧なつくりの関節もってんだろうな。

何に使うんだ?

詩織ちゃんポーズ取らせて部屋に飾って着せ替えして楽しむのか?

誰が買うんだろうな。

そういや数年前にきらめき高校の制服やら体操服やらがコナミ公認グッズとして

売られ出したときもかなりあせったけどね。

きっと夢見る女の子がコスプレしたり

妄想する男が着て鏡の前でうっとりするんだろうと思っていた。

あのグッズが今ここで、等身大の詩織ちゃんに着せられるじゃあないか!

こりゃあすごい!

あほか

そういえば、きらめき高校の生徒手帳とか、

記念コイン(金99%)ぐらいのものもあったような気がするなあ。

おれがときメモを知ったのは、ゲームより先にラジオだった。

今でこそ発売前のゲームのラジオ番組を放送する広報体制が整ってきているけど、

おれの知る限りではツインビーときメモ、つまりコナミさんが

そのはしりだったような気がする。

またときメモのラジオドラマがくだらねーんだ。

ナオトくんっていう主人公が幼なじみの詩織ちゃんとくっつくまでと

くっついてからを、他のキャラをからめつつ織り成すストーリー。

なんだけど、あまりの甘酸っぱさジンマシンができまくっていた。

そしておれは毎週楽しみに聞いていたのさ。

夜な夜なからだをよじって甘く切ない恋物語に耐えていたんだ。

それからプレステのゲーム買ってやったのよ。

最初にオープニングテーマを聞いたときはうかつにも感動しちまったね。

ゲームなのにアニメが動いてるよぉ!!

それからしばらくは、

キャラの服装がださかろうと、

キャラの行動が古臭かろうと、

攻略本まで買って、

プレイステーションの性能に感動しながらコンプリートを目指したね。

そして最終的にはまさに全クリを達成した。

館林さんと伊集院をふくむ13人(だっけ?)のエンディングは見たし、

清川さんの髪が長いバージョンのエンディングも見たし、

如月さんの眼鏡じゃなくてコンタクトバージョンのエンディングも見たし、

あとなんかあったっけな?

とにかく完全クリアしたのさ。

ほぼ義務感で。

そしてそのあと、不思議な悟りを開いた。

人間は恋愛感情というものを記号的に捉えているのだ。

誤解のないように言っておくが、おれは2次元のキャラに恋愛感情を持ちはしなかった。

しかし、ゲーム画面からにじみ出るコミュニケーションの相互編集性に、

きっと人間は好きになる対象から読み取れるさまざまな記号に恋するのだ。

とかふと思っちゃったのさ。

たとえば、別に実際に女体に触れなくても、H本の写真やらで興奮できるわけじゃん?

それは別に写真じゃなくてもエロマンガという媒体でもいいわけだ。

あれだけエロマンガがいろんな出版社から出ているところを見ると、

エロマンガに性的興奮を感じる人間は少なからずいるにちがいない。

まあエロマンガについてはまた別の機会にしておこう。

で、そのエロマンガの例は結構重要な点を示唆してるんだと思うな。

読者はマンガから性的興奮のツボを刺激される記号を読み取ってるわけでしょ?

作家はまたその記号を意図して強調しているわけだけど。

それと同様に、2次元のキャラから恋愛感情を刺激される記号を受け取ってもおかしくな いと思ったんですわ。

その考えについては、数年のときを経て、つい最近にますます確信を深めることになった。

春休みに、NHKスペシャルに関するビデオを学校で見まくったんよ。

そうしたらその中で、脳が対象を把握するときのシステムが紹介されていた。

脳は、たとえば人間の顔を認識する際に、

相手の顔の輪郭やら、色やら、表情やらを別々の部分で認識して、

それを総合して最終的な認識にいたるらしい。

だから、形(だったと思う)を認識する部位を欠損してしまった人は、

相手の顔の色やなんかは分かるのに、

なぜだか顔そのものが見えなくなったりするんだ。

目とか鼻とかを認識できなくなっちゃうんですな。

ということは、やっぱり人間は対象の認識を記号的に処理していると考えていいんだ。

と、思うに至ったというわけです。

こういう考えが、おれの記号論への興味に結びついたんだけど、

一年生のときに人文系の本に対する軽いむかつきを覚えて以来、

さよなら記号論。

記号論の概念に通じても、別におれの生活がうるおうわけでもないし、

人生がそうそう豊かになるとも思えなかったしね。

って別にこんなどうでもいいことをあほコナミの広告に想起させられたことに

多少の憤りを覚えつつ、

やはり五十万円というばかばかしいお値段に大笑いして、

今回はこの辺で。

HOME BACK

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送