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−息−
白い砂の上に横たわった、アスカ。眼も口も反応しない。
潮騒が、一定の間隔でシンジの鼓膜を叩き続ける。
月が輝いている。月は、海の彼方から延びた血をセロファンにして、地に赤みのかかった光を落とす。
海と砂に二分された視界は、赤と白から成っている。
白い砂浜は、いくら月明かりを浴びても冷たいままで、熱は尽く雲のない美しい星空に吸い取られていく。
海は、熱を失ったまま、リズムを刻み続ける。ザザーン、、ザザーン、、ザザーン、、ザザーン、、ザザーン、、
潮騒は、胎動を予感させるが、海水は砂浜に到達すると白い砂の光度を一瞬下げるだけですぐに死んでいく。
吸い取られた赤い水は、砂の中でやがて凍り付き、自分の存在への執着から、白い墓を自分の肉に生やし、
やがて周りの砂と同化していくのだろう。白い砂は海の墓場だ。砂は、唯そこに在るだけで、何も生み出しはしない。
砂は、何もかもを吸い取って、空に全てを捧げてしまう。
空に、母さんがいる。母さんは全てを結晶化させて離れていった。僕は、もう一度捨てられたのかもしれない、
そう感じた少年は、少女とともに、砂浜の暗く深く小さい二つの影になっている。
再び、手を眺めるシンジ。
右手を月にかざして、親指で中指の先端をこする。指は逆光で暗い。爪の間に詰まっていた白い砂が、月明かりを反射しながらパラパラ散る。
蟻も、蛆も、蜜蜂の卵も、黴の胞子も、抗体も、精子も、なにもいない。
海の果てから流れて来ていた、綾波の眼球が放つ腐敗臭も、ずっと昔に消えてしまっていた。
「ねぇ、おかあさんの内蔵が引き千切れるのを見るのって、どんな感じ」
白い砂の上に横たわった、アスカ。人形の眼は動かない。
身体を起こし、背を丸め、眼を見開いて、その動かない眼を凝視するシンジ。
「痛かったんだよね、痛かったんだよ、そして嬉しかったんだよね、おかあさんのお腹の苦しみがそのまま自分の苦しみ
になっているのが嬉しかったんだよね、お腹の中心から吐き気がするような沸騰が迫ってきて、でも、その、それはおか
あさんも同じなんだって事に確信が持てたんだよね、僕は知ってるんだ、僕はもうみんな知ってるんだよ」
海の向こうに、石化した巨人の十字架。その更に奥にもう一体、霧に覆われてよく見えない十字架。
「ねぇ、何か言ってよ。」
十字架は記憶を呼び覚ます。アスカの網膜を介して、シンジの中に移された記憶。
太陽の周りを舞う翼の巨人、
掲げられる赤いひきつった手、
空へと引き擦り出されていく腸、
何も映らなくなったモニター、
左目の情報を寸断する槍、
303号病棟の天井、
沈降する振動で震える赤い戦闘服の脚、
差し伸べられる天の閃光、
義母からの言葉を受けた電話、
加持を包むあたたかい服、
吊された人形、
白い天井に吊り下がった白い死体、
白い部屋、
白い服を着た母。
「アスカも僕の事みんな判ってるくせに!!それとも、何もかも判ってるから話さないの?僕だって知ってるよ、
アスカだったらきっとこう答えるんでしょ、あんたは何も判ってないって。・・・・・・・・・・・ねぇ
僕を助けてよ。・・・ねェ、
僕、ダメだよね、
何も変わってないんだもん、チクショウ!!!!!!僕はダメだダメだダメだダメだダメだでも僕はこうして話して
いるのに、アスカは答えてよ、ねぇ、僕はアスカの事わかりたいよ!!また太陽が昇るよ、もう何回太陽が昇った
のか判らないよ、僕最近太陽が熱く感じられないんだ、アスカはずっと寝たままだから見えないだろうけれど、
あっちの丘に折れた電柱があるんだけどその電柱がね熱でドロドロになってしまってるんだよ、びっくりしたよ、
でも僕のからだはなんでもないんだ、僕どうしちゃったんだろうね、何も食べてないけど、なんか、お腹が空くって
事自体が分からなくなりそうなんだ、ね、ここは何もないけど、本当に、何もないよね、ミサトさんのペンダントもど
こかにいっちゃった、海の遠くにあったビルも沈んじゃったよ。ねぇ、このままだと、本当に何もかも無くなっちゃうよ、
アスカ、太陽が昇ったら何も見えなくなるんだ、
ずっと寝そっべたままでもそれくらいは知ってるでしょ、まばたきもしてないみたいだし。
空は太陽の光で真っ白になって、砂浜も真っ白で、あの赤い海だって光に負けて真っ白になっちゃうんだ。
凄い光だけれど、眼は痛くならないんだ、なんか、痛いってどんなことだったかも忘れそうだよ。
なんでまばたきするのか分からなくなったから僕も最近はまばたきするの止めたよ、どうせ、眼をつぶったって、
光は瞼を無視して入ってくるから、どっちにしたって真っ白だよね、この眼、夜にしか役立たないよね、
アスカ、何かができるのは、夜のうちだけなんだよ、」
反応は、無い。
少年は、少女の胸に耳を付けた。
少女の柔らかな乳房の感触が少年の耳を包む。少年に性的な興奮は無い。
少年の耳に、他人の鼓動が、肉の奥にくぐもって聞こえてくる。
アスカは、生きていた。
アスカは生きていた
アスカは生きていた
アスカは生きていた
アスカは生きていた
アスカは生きていた
アスカは生きていた再び孤独感が少年を襲う。怒りが生まれる。安堵が、悲しみが、喜びが、苦しみが、あらゆる感情が、一挙に去来する。
シンジは、アスカの赤い服を首から引き剥がした。
アスカの首が、浮いた上半身に引っ張られて力無く持ち上がり、堅い服が裂けると、
砂に頭を打ち付けてまた元の場所に戻った。
白い乳房。しかし、何も感じない。アスカの身体も赤と白の二つに分かれた。
昼間の破壊的な日光を19回浴びていながら、アスカの肌は白く、滑らかなまま全く変化していない。
少年の肌も同じで、変わらない。海の向こうに十字架が立つ前と、同じ色をしている。
世界は、2人に何の働きかけもしない。
アスカの眼は空に向けられたまま変わらない。
何の感情も表さない。
アスカの眼はどこか別の世界の物に思えたので、シンジはその眼を見ることに臆さなかった。
人形に填め込まれた、プラスチックの眼球だ。
さっきの、アスカの生を確認した事に対する感情はどんどん薄らいでくる。
人形だ、人形だ、アスカの子宮はもう血を流さないだろう。
シンジは勃起しない。この世界には、もう何も付け足す物が無いのだろう。
アスカも、もう何も付け足そうとしていないのだ。
白い皮膚。やっぱり砂浜と同じ色だ。
血の死骸の集合だ、血の墓場だ。墓石は大理石でできていて、なにものも中に通さない。
皮膚の内側は、まだ赤いだろうか。
心臓はちゃんと赤い血を送り出しているのだろうか。
この体の半分を覆う服が、既に全ての赤を奪ってしまっていないだろうか。
あの心臓の音は、幻だったりしないだろうか。
アスカは、本当に生きているのだろうか。
アスカの、白い胸にもういちど耳をあてるシンジ。
心臓の音。
心臓の音。
水の流れる音。
水槽の中を流れる泡の音。水槽の壁は冷たい。壁の中に手を延ばすことはできない。
シンジは、両手でアスカの顔を掴み、指に力をこめた。手の甲に筋が現れる。その顔と自分の顔とをグッと近づけ、
虚ろの目を自分の眼球のすぐ前に置く。叫ぶ。
「あああああああああああああああああ!!!!!!!」
沈黙
アスカのヴィジョンが壊れていく。アスカのことが何も判らなくなってくる。
いや、初めから何も判っていやしない。何故これがここにいるのだろう。
アスカは違う、アスカはいない、アスカは白い大理石に隔てられてどこかへ消えた、
やっぱりあの心臓の音は夢だ、アスカに心臓なんか無い、ただの人形だ、目はやっぱりプラスチックだ、
そうだ、本当にこの目がプラスチックかどうか、確かめなきゃいけない。
人形の頬から手を離し、顔を砂浜に落とす。
跳ねた砂が、人形のきめ細やかな髪の隙間に入り込む。顔に填め込まれた眼球。
シンジは目の感触を想像しながら、震える手を伸ばす。
弾力を持ちヌルヌルした感触の想像は手を震わせ、
鉄の無機的な感触の想像は、手の震えを押しとどめようとする。
手が今まさに触れようとした瞬間
眼が動いた。
シンジは背中に冷水をかけられたような不快に包まれ、ヒッと後ろに反り返った。
眼は一点を、シンジの眼を見据えている。
恐怖に捕らわれたシンジ。前方の眼は無表情のまま、ただこちらを向いている。
その角膜に、動かない自分の姿が映っている。
碇シンジの顔だ。碇シンジの顔に眼球がある。碇シンジは動かない。人形だ。
碇シンジ、僕だ。そうだ僕は碇シンジの心臓の音を聞いていない。
碇シンジの肌が、月明かりを跳ね返して白く光っている。
僕は碇シンジの眼から眼をそらせずにいる。
僕はずっと碇シンジだ。碇シンジでしかない。碇シンジでしかなくなった。僕は碇シンジの事も判らなくなった。違う、
僕は碇シンジじゃない、
僕は僕だ、
僕は僕以上のものじゃない、
僕はここにいる、それだけだ、
アスカが僕を碇シンジであるように押しとどめている、
アスカが全てを決めつけて押し込んでいる、
少年は少女に覆い被さり、その首に手をかけた。
気道が潰されるが、呻かない少女。
その目には星空が映り込んでいて、もう少年は映っていない。
冷たくて綺麗な空。碇シンジは消えた。
手に更に力が加えられる。少女の首に出来た溝が深くなる。
呻き声は産まれない。
首の骨が折れる。
海から潮騒が聞こえる。潮騒はなおも一定のリズムを刻み続けている。
アスカの中に、赤い海は広がっていなかった。
砂まみれの包帯が縫い合わせていた、白い腕。中指と薬指の間から始まっている肉の亀裂は、
黄色く曖昧な光でボーッとなり、正確な輪郭を捉えることが出来ない。白の布切れも、白の砂浜に溶けて、喋らない。
人形のまま応えずに、アスカはアスカのまま生きている。
ずっと。
人形の眼を覗き込めば、またいつでも碇シンジは産まれるだろう。
寂しさは消えない。
歯を食いしばる。鼻の奥が冷たく悲しいもので詰まる。息を吐く。
・・!!
手の力が抜けた。
碇シンジは、アスカの頭のすぐ隣の砂に頭を打ち付けた。
耳が、アスカの髪に触れる。
っう。
・・・・・っっ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、!・・・・
虚弱の眼に映る物。
月の揺れる海。海に浮かぶ十字架。歩き出す人影。スニーカーの足跡が、月明かりに照らされて、蛇行しながら続く。
赤い海が、足下に迫る。
血の海がある。
海に落ちた。
赤い水の中は、暗かった。上を見上げても、光は見えない。
不透明の水は、シンジの口から鼻からゴボゴボと入るが、苦しくない。
シンジは、自分の身体が内側から赤く染められてしまうのではないかと思って怖くなった。
水に味はない。でも、ほのかに暖かいような気がする。それに気付くと、怖れは消えた。
その微弱な温度に手繰り寄せられ、シンジは真っ暗な、感覚の世界の奥へ奥へと漂っていった。
何も、現れない。
何も見えない。
頭はすっきりとしている気がするが、中身は無い。
変化のない、真っ暗な世界。
今いる所の深さが分からない。砂浜からどの位離れたのかも分からない。身体に触れてくるものは、
揺り籠のような波の風だけ。ゆらゆら揺れて体が流され、海と一つになっていく感じがする。
微かな温度に包まれて、自分の存在が薄らいでくる。微かな温度が肥大を始める。自分が喰い潰されていく。
それでも眠らない自分。
夢。
太陽が昇った。
海面は真っ白になり、血の海を隠蔽する膜となっている。陽炎は立たない。
全ての熱は膜に拒絶され、冷えたままの血が中を流れる。
光が届かない海の中は、依然闇に閉ざされている。
シンジは、漂っている。手で自分の顔に触れている。手は見えない。指が頬を伝う。指の質感のみが感じられる。
遙かな血の流れの奥底から、太陽を探すシンジ。空がどの方向にあるのか分からない。
一本の電線が、熱に焼き切られて水に沈んだ。電線は、水中で先達と複雑に絡み合って動かなくなった。
電線が全て落ちた電柱。電柱を成す粒子が繋がりを失い、砕ける。海に落ちたコンクリートの破片が波を作り出す。波は光に塗りつぶされて影をつくらない。
水も壊れて、雲が出来ない。雨が降らない。なにものも、刺々しさを癒してくれるものを望まなくなった。棘は光に折られ、ひしゃげていく。
光る天地を拝み続ける十字架も、両腕を失くして只の棒になった。眼の無い塩の柱となったリリスの体は、足下の海に喰われて消えた。
血は流れない。膜の下の血の淀みも、ここからは見ることができない。
砂の上に横たわる少女は、周りの砂の真っ白な光に包まれて、どこいるのか分からない。
海の底。潮騒は、耳に届かない。
ヒト補完。
1998 12/10-12/15
98年12月、三者懇談に苦悩しながら・・
読んで下さった方、感想待ってます。polaano@ma3.seikyou.ne.jp
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